リジェクトと絶望と、その先の景色

さて、ページを開いてもらっていきなりですが、みなさんに質問です。
このウェブサイトも早6年ぐらい運営していますが、いまだに根強いアクセス数を誇る記事はどれだと思いますか?
いや、知らんがなって感じですよね。
答えを言いましょう。それは「逃げていいですか?論文の査読無しリジェクト6連続」という、私のPhD学生時代のトラウマ体験を包み隠さずに書いた記事です。
6年経った今も、この記事は毎月コンスタントに読まれ続けています。
なぜでしょうか。
研究の世界では、どうしても成果だけが注目されがちです。論文が通りました、助成金が取れました、アワードをもらいました。それはそれで素晴らしいし、その体験談は参考になります。
けれど、本当に知りたいのはそれだけじゃないはずです。
その背景にどれだけ大変な思いをしたのか。どうやってそのハードルを乗り越えたのか。あるいは、乗り越えられなかったとしても、その後どう進んだのか。
そういう生々しい体験談こそ、今まさに大きな目標に向かっている人たちの支えになるのだと思います。
もちろん、失敗や苦労、落胆などを書くのは勇気が要ります。
誰だって、自分の弱みや挫折をおおっぴらに話すのは気が重いです。
でも、だからこそ価値があるのかもしれません。
実はこの1年間、私はとても大変な経験をしてきました。他の記事では平静を装いながら、論文のサブミット、リジェクト、リビジョン実験などを死に物狂いで繰り返す日々。それは、先が見えず、精神が擦り減っていく毎日でした。
そんな中、ようやくリビジョンを終え、ひと段落しました。
少し距離を置いて振り返ると、この1年間の体験を共有することも、また誰かの糧になるのかもしれません。
だからこそ、まだ記憶が鮮明なうちに、それを書き残そうと思います。
野心
昨年10月、私は恐れ多くも、とあるハイインパクトジャーナル(以下、ジャーナルA)に論文を投稿しました。
なぜそこまで背伸びをしたのか。それは、私の頭の中に明確なキャリアプランが描かれていたからです。アメリカでPIになるために、自分に厳しめのマイルストーンを設定していました:
- 有名なラボでポスドクをする
- アメリカの大きな助成金を獲得する
- 留学3-4年以内にサブ論文を通す
- それを成果としてCareer Development系の助成金を獲得
- もう一つのメイン論文を通しつつ、アカデミックポジションを探す
*このように設定した経緯は色々あるので、1つの参考程度に考えてもらえれば幸いです。
この論文は、そのステップ3にあたる重要なピースでした。肺がんの新しい治療戦略に関する研究で、数万人の臨床データも含んでいたため、勝算はあると考えていました。
そして、予想外の追い風が吹きます。
ジャーナルエディターから、私の基礎研究論文と関連する臨床試験の論文を「back to back」形式で投稿することを提案されたのです。これは、ジャーナル側がそのテーマに強い関心を持っている証で、通常は招待論文や特集記事で用いられる特別な扱いです。
「これは行けるかもしれない」
期待は高まる一方でした。
完璧な計画が、順調に進んでいるように思えました。
関門
12月、ジャーナルAからリジェクトの通知が届きました。
エディターからのコメントは「科学的な新規性が不足している」というものでした。臨床データには価値を認めてくれたものの、メカニズムの掘り下げが足りないと。
正直、このジャーナルは少し背伸びした挑戦だったので、リジェクト自体は想定の範囲内でした。むしろ、レビュワーのコメントの多くは建設的で、手ごたえを感じることもできました。
そして、次の目標は明確でした。キャリア維持の最低ラインであるジャーナルBです。ジャーナルAから指摘された実験を進めながら、2月にジャーナルBに投稿しました。
ジャーナルBなら、きっと大丈夫。そう信じていました。
そして、運命の日がやってきます。
2月
ジャーナルBからのメールを開いた瞬間、目の前が真っ暗になりました。
Editorial Rejection(査読なしのリジェクト)。
理由は「新規性が不足している」。
これは単なるリジェクトではありません。
これは、私が描いていたキャリアパスの行き止まりを意味していました。
なぜか。
その時点で、留学から約4年が経っていました。
当初の計画では、3-4年以内にサブ論文を通すはずでした。しかし、すでにそのタイムリミットは過ぎています。リビジョン作業を考えると、もう数か月以上の遅れです。
この遅れを正当化するには、より高いインパクトのジャーナルに掲載する必要がありました。「時間はかかったけど、それだけの成果を出せた」と言えるような論文が。
でも、それができなかった。
本命のジャーナルに、査読にすら回してもらえなかった。
「すぐさま医者に戻るべきか。」
「臨床の世界に戻れば、少なくとも患者さんの役に立てる。」
「でも、この4年間は何だったのか。」
まとまりのない考えが、次々と頭をよぎります。
答えは、しばらく出ませんでした。
背水の陣
でも、私には引き返せない理由がありました。
この時点で、私には専属のテクニシャンが2人ついていました。2人とも医学部志望で、私の研究を全力でサポートしてくれていました。
彼らの医学部出願には、この論文での貢献が重要な意味を持ちます。
私が論文をまとめられなければ、彼らの努力も報われない。
そのプレッシャーは、自分のキャリアが崩れた喪失感とはまた違う、重いものでした。
今後の戦略を練っていたところ、最初のジャーナルAから提案されていたtransfer optionである姉妹誌(ジャーナルC)のことを思い出しました。インパクトファクターは本命より下がりますが、それでも十分に評価されているジャーナルです。
もう時間は残されていない。
当初のキャリアプランは明確に崩れた。でも、ここで投げ出したら後悔するだろう。この論文の責任著者である私がラボを去れば、このプロジェクト自体が論文化されずに終わってしまうリスクもある。
それだけではありません。
医師として、この研究には確かな意義があると信じていました。臨床還元には、まだ道のりがあるとはいえ、成功すれば年間、数千人の患者さんの治療選択に影響を与えうる知見です。
自分のキャリアがどうなろうと、この知識は世に残すべきだ。
そう自分に言い聞かせて、ジャーナルC のリビジョンを受け入れることにしました。
レビュワーからの要求は明確でした:
「科学的なメカニズムを掘り下げろ」
一筋の光
ジャーナルBのリジェクト後、私たちは面白い発見をしました。
ある薬剤のバイオマーカーを調べるために、候補となるタンパク質を1つ1つノックダウンしていったところ、あるタンパク(仮にタンパクXと呼びます)をノックダウンしたときに、驚くほど強いフェノタイプが現れたのです。
「これだ!」
その瞬間の興奮は今でも覚えています。テクニシャンたちと一緒に、何度もデータを確認しました。実験手法や実験モデルを変えてもその再現性は完璧でした。
これはPhDの時にも感じた、論文化を確信したときの感覚と同じです。興奮して1週間ほど眠りが浅くなりました。
しかし、研究者なら誰もが知っているように、「現象を見つけること」と「それを論文にすること」の間には、大きな壁があります。
そう、「メカニズム」を掘り下げる必要がありました。
タンパクXが重要なのは分かった。でも、なぜ重要なのか?どうやって働いているのか?
それを解明するための戦いが、ここから始まりました。
仮説の墓場
私は次々と仮説を立て、検証していきました。
タンパクXは足場タンパクとして機能し、他のタンパク質の局在を制御しているのではないか。
様々な研究手法と条件を試しましたが、結果はネガティブ。
それなら、特定の顆粒体を形成しているのでは?先行研究や、私のもう一つのメインプロジェクトが液-液相分離に関わっていたことから、この可能性を追いました。初めての実験系にも挑戦しましたが、やはりネガティブ。
実に、立てた仮説の90%が失敗に終わりました。
テクニシャンたちは、私と一緒に膨大な時間を費やして実験をしてくれていました。それなのに、ほとんどの実験がネガティブデータしか生み出さない。彼らの顔を見るたびに、申し訳ない気持ちになりました。
この頃、テクニシャンの一人が「No worries, this is science(心配しないで、サイエンスはこんなもんだから)」とよく言っていました。彼女なりに私を励まそうとしてくれていたのでしょう。その優しさが、かえって胸に刺さりました。
そして、もう一つの可能性が残っていました。タンパクXのキナーゼ活性が重要なのではないか。
一番避けたかった方向性でしたが、データが少しずつその可能性を示唆していきました。しかし、これは大きな矛盾を生み出します(詳細は省きますが)。一体、どういうメカニズムなのか。
正直、全く掘り下げられるアイディアがなく、行き詰っていました。AIを使ってDeep Research機能で仮説立案なども試みましたが、それでも答えは見つかりません。
そこで、実験の手を一度止めて、ひたすら論文を読み込む時間を取りました。
偽りの希望
1週間の文献調査の中で、ある1つのタンパク質(仮にタンパクYと呼びます)の名前が、何度も目に留まるようになりました。
そのタンパクYは、実は以前に何気なくノックダウンしていて強いフェノタイプがあることを思い出しました。
当時は意味が分からず放置していたのですが、もしかしたら…
「タンパクXとタンパクYが結合しているんじゃないか?」
新しい仮説が生まれました。論理的にも筋が通ります。
さっそく、共免疫沈降法を行い、メンブレンを現像して、バンドの位置を確認すると、、、
そこには目的のバンドがありました。
その瞬間、ラボの空気が少しだけ軽くなったような気がしました。テクニシャンたちも一緒に喜びました。
何ヶ月も続いた仮説の墓場を抜け出せるかもしれない。ようやく、メカニズムの糸口が見えたのかもしれない。
その日は久しぶりに安堵しながら家に帰りました。
翌朝、ラボに行って再度メンブレンを確認しました。コントロール実験の結果も見てみます。
そして、気づいてしまいました。
あのバンドは、非特異的なバンドでした。私たちが見ていたのは、実験アーティファクトだったのです。
テクニシャンたちに報告したとき、彼らの顔が曇るのが分かりました。私も、ただ「ごめん」としか言えませんでした。
これは、この1年間で最も深い絶望だったかもしれません。一度希望を見てしまったからこそ、それが失われたときの痛みは何倍にもなりました。
追い込まれすぎて、こんな単純なミスをする自分にも落胆しました。
執念
でも、私はどうしても諦めきれませんでした。
「タンパクXとYが結合している」という直感が、どうしても捨てられなかったのです。論理的な根拠があったわけではありません。ただ、これまでのデータの断片が、何かそう囁いているような気がしました。
もう一度、共免疫沈降法をやり直すことにしました。
ただし、今度は条件を大きく変え、通常よりもはるかに過剰な条件で。
そして…バンドが出ました。
今度は間違いなく本物でした。
原因は、実験のプロトコールでした。通常のプロトコールでは検出できないほど、この相互作用は弱かったのです。
そこから数日間かけて、実験手法の最適化を続けました。そして、ついに通常条件下でも、タンパクXとYの結合が安定して検出できるようになりました。
点と線
その結果を確認した瞬間から、不思議なことが起こり始めました。
何も考えなくても、これまで積み上げてきたデータが、勝手に頭の中でつながっていくのです。
ポジティブデータもネガティブデータも、すべてが1つのストーリーに収束していきました。
「ああ、あのネガティブデータは、こういう意味だったのか」
「あの実験結果が奇妙だったのは、こういう理由だったのか」
バラバラだったピースが、一気に組み上がっていく感覚。
それは先行論文のデータまで説明してくれるものでした。細かく読み込んだときに浮かび上がってくる小さな矛盾にも、答えてくれるピースだったのです。
この感覚を、どう表現すればいいのでしょう。
陳腐な表現かもしれませんが、ただ「美しい」としか言えません。
同時に、残酷でもありました。
答えはずっとそこにあったのに、私には見えていなかった。
こんな単純なことに、なぜもっと早く気づけなかったのか。ヒントはあったのに。
でも、そういうものなのでしょう。研究ってやつは。
収束
そこからは、立てた仮説の半分以上が、ポジティブなデータとして返ってくるようになりました。
少しずつ、比較的きれいなストーリーが見えてきました。追加の実験を進め、データを補強し、論文の構成を練り直していきます。
幸運だったのは、今回のリビジョンで得られた「新しいメカニズム」が、最初の投稿時点で示していた科学的なノベルティと、自然につながったことでした。
最初のアイデアを否定するのではなく、むしろ土台として支え直してくれるような形になったのです。
最終的に、この論文は:
- 独自の数万人規模の臨床データを使ったバイオマーカーの同定
- 科学的根拠に基づいた新しい治療戦略の提案
- 実際の肺がん患者さんの奏功例の紹介
- 今後、発展しうる研究の方向性の提示
という四本柱を持つ、サイエンスとしても納得のいく内容になりました。
医師としても、患者さんに「ここまで頑張りました」と胸を張って言える論文になったと思います。
今年の10月、リビジョン作業を終えて論文を再投稿しました。約1年間の長い戦いでした。そして、現在も審査中です。
再投稿の際、リバイスした論文をプレプリントとして一般公開し、テクニシャンの2人をそれぞれセカンドとサードオーサーにしました。
業績/成果のアップデートを各医学部に伝えたところ、2人とも次々とインタビューのオファーをもらうようになり、なんと見事に2人とも医学部に合格しました。
彼らの努力がきちんと評価される形になって、本当に良かったです。この1年間、何度も投げ出したくなったけれど、この成果だけでも頑張ってきて良かったと思えました。
その先の景色(まとめ)
さて、ここまで1年間の戦いを赤裸々に書いてきましたが、では、私は今の現状に落胆しているのか?
正直な答えは、半々です。
悔しさはもちろんあります。ただ、一方で、自分の中で最大限、頑張れたと納得することもできました。そして、思いのほか、次のステージで何をしようかと考えると、ワクワクしている自分がいます。
アメリカでPIになるという夢は、確かに遠のきました。当初描いていたキャリアプランは、予定通りに進みませんでした。でも、計画していたキャリアが私にとって最善だったのか、それは何十年も先にならないと分かりません。
もし私がすべてのマイルストーンを完璧にクリアして、晴れてテニュアトラックに乗ったとしても、そこから先も熾烈な競争と、果てしないグラント取りの日々が続いていたはずです。現在のアメリカのアカデミアの環境を見ていると…まあ、それはまた別の話ですね。
何が言いたいかというと、人生における「最善」は、その瞬間には見えないのかもしれないということです。失敗だと思っていたことが、実は自分を守ってくれていた。遠回りに見えた道が、実は近道だった。そういうことは、後になってみないと分からない。少なくとも、今はそう信じたいです。
この1年間の経験は、間違いなく人生でトップ3に入る大変さでした。
けれど同時に、私はとても貴重なものを手に入れたかもしれません。それは、この先どれだけ順調な道を歩んでも、少なくとも当面の間は謙虚でいられる「戒め」のようなものです。
90%の仮説が失敗に終わる苦しさ。一度見えた希望が翌朝には消える残酷さ。テクニシャンたちの期待を背負いながら、それでも諦めずに前に進み続けた日々。責任著者として、すべての仮説を立て、検証し、最後まで論文をまとめ上げた経験。それは、きっとこれからの人生で私を支えてくれる財産になるはずです。そして、どんなに良いことがあってもこれらの経験は自分を律してくれると信じています。
アメリカまで来て、「何故こんな辛いことをしているんだ」と何度も思いました。医者なのか、研究者なのか。自分のアイデンティティは何なのか。そんな問いにも、苛まれました。
でも極限状態に自分を置いたことで、その答えが少し見えてきた気がします。
この論文は、研究者として科学的なメカニズムを追求しながら、同時に医者として患者さんの治療に貢献できる内容になった。その両方を諦めずに追い求めたからこそ、最後まで続けられたのだと思います。
私は医者であり、研究者でもある。どちらか一方ではなく、両方の視点を持っているからこそできることがある。完璧なキャリアプランを追うよりも、その時々で自分にできる最善を尽くしていく。今はそれでいいと思っています。
さて、自分語りが過ぎてしまいましたね。ここらへんで、止めておきましょう。
この記事が、冒頭で触れた6年前の記事のように、誰かにとって意味を持つかどうかは分かりません。でも、少なくとも今の私には、書き残す価値があると思えました。
研究は孤独です。
でも、たまに誰かの経験談を読んで「ああ、自分だけじゃないんだ」と思える瞬間があれば、少しだけ楽になるかもしれません。
そんな記事の一つになれば、幸いです。
怪獣 – 編集後記(おまけ)
追い込まれていた時期、私はクラシック音楽ばかり聴いていました。
歌詞が話しかけてくるような感覚が重くて、言葉のない音楽の方が、気が楽だったのだと思います。
ただ1つだけ、歌詞があってもずっとリピートしていた曲がありました。
サカナクションの「怪獣」という曲です。
これは、天文学者たちが命をかけて地動説を立証していく姿を描いたアニメ『チ。』の主題歌でした。
だいぶ自意識過剰かもしれませんが、そんな彼らの姿が、なんだか自分と重なって見えました。夢の中でも実験のことを考えている。目が覚めると、新しい仮説が頭に浮かんでいる。食事中も、シャワー中も、頭のどこかで研究のことを考え続けている。
振り返ってみると、あの時期の私は、まさに「怪獣(モンスター)」になっていたのかもしれません。
私はこのマンガ/アニメに、救われたと思います。真理を追い求める過程で、何度も何度も壁にぶつかる。それでも諦めずに前に進む姿に、自分を重ねていたのだと思います。
現在、もし同じように辛い経験をされている研究者の方がいたら、ぜひ観てみてください。きっと、何かが響くはずです。